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伝えたい、戦争の記憶
伝えたい、戦争の記憶
「決して忘れてはならない戦争の記憶」をテーマに、戦争体験者の手記をご紹介した2022年8月号の特集企画。
改めてコープしがの平和政策「過去の歴史に学び、命の尊さを考え、お互いの人権を守り、自然と共生し、安心できるくらしづくりをすすめること」の大切さを実感した方も多かったのではないでしょうか。今回はその第2弾です。

羅津らしんで生まれ

語り手:高島市 白瀬 常博さん
イメージ写真写真はイメージです

私は昭和11年に、日本の支配下にあった朝鮮半島の東北端、日本海に面した「羅津らしん」という街で生まれました。日本本土と大陸を結ぶ港町の一つで、海軍や陸軍の司令部がある軍事的にも重要な街でした。

家族は両親と弟、その下に双子の弟と妹がいました。父は歯科医院を開業しており、その手伝いをしていた母のめい(私のいとこ)も同居していました。
小学4年生だった昭和20年の8月9日の未明、母の叫び声に起こされ窓の外を見ると真っ赤でした。何事が起こったのか判断する余裕もなく、枕元の着替えを抱え、防空壕に駆け込みました。壕の真上を通過し、落ちてくる爆弾の「キューン キューン」と鳴くような音が続いた後、金属性の何かで全身を殴られたような感じに襲われた瞬間、入口の扉が吹き飛ばされ、硝煙の匂いを含んだ砂塵に壕全体が包まれました。自宅近くの大橋に2発の焼夷弾が落とされたのでした。私は次に来るかもしれない爆弾に怯えながら布団をかぶり、無事であることをひたすら祈っていました。真っ赤に見えていたのは、家から500メートルほど離れた埠頭にある、軍の燃料貯蔵庫の火災でした。昼過ぎになり、繰り返される空襲から逃れるため、リヤカー1台に生活資材を乗せ、近所の人たちと山中に避難することになりました。私はまだ子どもでしたから、小川に浸かったりしてはしゃいでいました。大人も一時避難のつもりで、まさかそのまま永遠に帰れなくなるとは、誰も考えていなかったようです。しかし、街に戻っていた父が「ソ連の参戦」と「避難命令の発令」というニュースを持って帰ってきました。大人たちの表情の硬さで、事態の深刻さを感じました。

私たちは「会寧かいねい」を目指して山野を歩き続けることになりました。父が布団と毛布、衣類を入れたリュックを担ぎ、母といとこは3歳の弟と妹をそれぞれ背負い、6歳の弟は防空頭巾を持ち、私はリュックに缶詰をいくつか入れて歩きました。1日目に乳飲み子がひとり亡くなりました。泣く赤子の声を周囲から咎められ、母親が窒息死させたのだということは、後になって知りました。5日目の夕刻、ようやく会寧の街にたどり着き、避難民でいっぱいの貨物列車になんとか乗ることができました。翌日、満州の「図們ともん駅」に到着しました。そこにほぼ無人の客車が1両あり、みんな幸運を喜びながら移動しました。そうした状況下で、いきなり列車がソ連軍に襲撃されたのです。終戦の日、8月15日の昼過ぎのことです。「カキーン」という乾燥した音と衝撃を発して、最初の爆弾が水飲み場近くのホームに落とされました。繰り返す爆弾と機銃攻撃、弾薬庫が燃やされ、一瞬のうちに200名以上の犠牲者を出す修羅場と化したのです。私は座席の下で小さくなっていました。光と音と風が重なるようにして、何回か走ったのを覚えています。列車の窓から飛び出した父の先導で、私と弟は駅舎を抜けて走りました。母たちは乗降口から逃げたため、家族はバラバラになりました。駅前の広場では真っ赤な弾片がいくつも飛来し、地面に転がり燻っていました。手首から鮮血を吹き出しながら逃げ惑う女学生の姿を覚えています。夕暮れ近く、家族全員と仲間に再会できた後、最初に乗った貨車は直撃弾を受け転覆し、まともに見られる状況ではなかったと聞きました。私たちは九死に一生を得たのでした。

その後、私たちは再び避難列車に乗り「撫順ぶじゅん」に到着しました。道中、「戦争が終わった」と聞き、子どもながらに「飛行機はもう怖くないのだな」と安心しました。撫順は満州各地からの避難民で溢れ、私たち家族は日本人がかたまっている収容所の一つの教会に移りました。80畳敷ぐらいの部屋に90人近い人が生活していました。1家族に1枚か2枚の薄い布団、1日に2回コーリャン(穀物の一種)のお粥が配給されました。着の身着のままの当時、しらみ取りは日課でした。零下20~30度になる冬頃には、子どもも大人も関係なく亡くなっていきました。しらみが媒介する発疹チフスが原因で、栄養失調の人間にはひとたまりもありませんでした。撫順は炭鉱があったので火葬ができましたが、遺体の数が多すぎて、半月以上も野外にそのままでした。100体あまりの遺体が並んでいるのは、まさに異様な光景でした。

昭和21年6月、撫順からの引き揚げが始まり、教会の収容所は第1陣に選ばれました。無蓋車むがいしゃの貨車で牛豚並みの扱いでしたが、1週間ほどで「錦州きんしゅう」という街の宿舎に入り、船を待ちました。そして「葫蘆島ころとう」から出港し、6月20日、博多港に到着しました。私にとって初めての「内地」への帰還でした。ここまでの出来事は、わずか1年足らずの間に起こったことです。死に直面し、極限状態に追い込まれた人間の、平時には考えられない行い、様々な光景を目の当たりにしてきました。

皆さんの家族と同じように、私たちも平穏で幸せな日々を送っていたのです。人間は、歴史上同じことを繰り返しています。それだけに「ノーモア、ヒロシマ・ナガサキ」であってほしいです。

(一部抜粋し、編集しています)



東京から疎開した後のはなし

語り手:多賀町 小財 ともさん
イメージ写真写真はイメージです

私は昭和7年に東京都世田谷区で生まれました。父母、妹2人の5人家族で、父は映画の撮影所で働いていました。

小学3年生の12月8日、大東亜戦争が始まり、学校に行くと友だちが「怖い怖い」と言っていたので「何があったの」と聞くと「アメリカ軍が攻めてくる」と言っていたのを覚えています。4、5年の頃は空襲もなく、まだそんなに激しくはなかったので警戒警報が鳴ると、給食のコッペパンを一つもらって家に帰りました。肩かけカバンと防空頭巾を持ち、胸には名前・小学校名・親の名前・血液型を書いた名札が縫い付けられていました。制服や靴はくじ引きに当たると買うことができました。食べ物も配給でしたがあまりありませんでした。

父の映画会社は思想の取り締まりにあい、特別高等警察という思想警察が家に来ました。いきなり家に上がってきて本や資料を調べ、捨てるようにと投げつけられました。

小学校6年生の時に集団疎開が始まり、私は8月に新宿駅から汽車に乗って長野県北安曇野にある旅館に集団疎開しました。疎開先での暮らしは、方言で言葉が通じないことはありましたが、とても大事にされ、夏は水泳、冬はスケート、体育の授業でスキーを習い、村の人がわらで長靴を作ってくれました。満足に食べられない時代に食事は3食、おやつにもお芋が出たりして、とてもありがたかったです。

2月に卒業を控えた私は東京に帰らなければなりませんでしたが、その頃には東京でも空襲が始まっていました。東京に着くと空襲で新宿駅が無くなり、ボコボコになったプラットホームだけがありました。私は親が迎えに来てくれましたが、他校の5~6人の友だちには迎えがなく、先生の手をつかんで泣いていました。友だちは、両親が空襲で亡くなったことをその時初めて知ったのです。

当時小学校卒業後は、女の子は女学校、男の子は中学校、または高等科に進学するか、そのままお手伝いや丁稚にいくか、それぞれ分かれます。私は疎開の間、教育を十分に受けられていなかったため、女学校ではなく高等科に進学しました。高等科では、教科書を墨で黒く塗りつぶすことから始まりました。それまでなかった英語の授業が始まりましたが、先生がいませんでした。結局、女学校に行った友だちも、終戦間際は軍需工場に行ったので、ほとんど勉強できなかったそうです。

その頃、私の父は病気のため兵隊にはとられませんでしたが、寝込んでいて4月1日に亡くなりました。物がない時代でしたので、父の映画仲間の大道具さんが祭壇や棺桶を造ってくれましたが、当時は焚き物を持っていかないと火葬もしてもらえません。近所の方に薪などを集めてもらい火葬をしました。その方に「見てごらん。煙突から出ている煙がお父さんだよ」と言われてそっと煙に目を向けると、むしろにくるまった遺体がたくさん山積みにされているのが目に入りました。昭和20年3月10日の東京大空襲で亡くなられた、身元も分からず弔いもできていない方々です。あの方たちはどうなったのかと今でも時々思い出します。

昭和20年8月、終戦を迎えました。実感はなく、ただ電気をつけてもいいことだけが分かったように思えました。それまでは光が漏れると空襲の対象になるので布をかぶせていたからです。

近所の下駄屋さんに少し年上の男の子がいたのですが、お祭りに誘ったら、「君は何を考えているんだ。これから日本は戦争に負けて賠償を払わなければならない。高額な賠償金を我々が支払わなければならないんだから、お祭りだと浮かれているひまはない」と言われたことを覚えています。

私の夫はいわゆる日系二世で、8人兄弟の4男です。夫の家族は多賀町からアメリカに渡り、夫はアメリカで生まれました。アメリカの地元の学校へ通い、土日は家の畑を手伝い、夜は日本人学校へ行き、日本語の読み書きを勉強する。両親は子どもを日本のお役に立てようと思って大学まで行けるよう一生懸命働いたそうです。その期待に応えて長男は日本の大学に進学しました。戦争が始まると夫の家族はアメリカの収容所に入れられ、得た財産もすべて没収され、収容所の生活を送ったそうです。

日本に帰り1年ほど大学生活を送っていた兄たちも、戦争が始まるとほとんど兵隊にとられました。夫の兄も敦賀連隊に行きましたが、英語ができる二世はアメリカのスパイと言われて、ひどい虐待を受け戦死しました。戦後、収容所から行きたいところまでの旅費は、アメリカ政府が出し、夫の家族は日本へ帰国しました。二世の話はあまり世間に知られていない話で、義両親の苦労努力を思うと涙が出ます。

平和が大切なことは誰もが知っています。それを守らなければいけないことも知っているのに、戦争というのは目先の欲で始まるような気がします。私のまわりから戦争はいりません。

(一部抜粋し、編集しています)

いま伝えたい平和への想い ~体験者からのメッセージ~

「いま伝えたい平和への想い」~体験者からのメッセージ~
滋賀県生活協同組合連合会・平和活動委員会では、戦後70年を機に戦争体験を聞き取る活動に取り組んでいます。お二人の原文も掲載しています。ぜひご覧ください。
第1巻から第6巻まで(税込 各200円、冊子制作の実費)

お申し込み・お問い合わせは コープしが組織広報部
フリーダイヤル 0120-668-825(月~金 9:00~17:30)

いま伝えたい平和への想い
~体験者からのメッセージ~

「いま伝えたい平和への想い」~体験者からのメッセージ~
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第1巻から第6巻まで(税込 各200円、冊子制作の実費)

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